日本の山間部の現状

かつて農家と百姓とは似たような意味だったはずです。

農業を生業にするということは百姓として暮らしていくということ。

ですがどうも事情が違ってきているのです。

農業をする人は農業だけをするようになってきた。

どういうことかと言いますと、山間部の農業を言葉にすると、

畑を開墾して、種を蒔いて、雑草を抜いて、収穫して、出荷して、また開墾して種を蒔いて、

畔が崩れないように草を刈って踏み込んで、水路の土を掻き出して。

と、こんな感じです。

では一昔前の農家はどうだったかと言いますと、違う部分だけを挙げてみると、

山の保水力を保つために広葉樹を植えて、

その樹がちゃんと育つように下草を刈って、枝も払って(切って)、

土が流れ崩れないように根っこの丈夫な草を残して、

新しい若い樹が育つように、大きく育ちすぎて光をたくさん遮ってしまう樹を切り倒して、それを薪にして、、、

つまり、一昔前の農家は、畑と山の管理が同レベルの仕事だったのです。

農業をするということは山も管理することだったのです。その管理された山を、人里のそばにあることから「里山」と呼んでいます。


<山の管理と畑の管理が分かれてしまった一番の原因は何か>

山間地の山が荒れている、さらには農地も荒れている。

百姓仕事が大変なのが原因だと思いますし、山間部の不便さも原因の一つだと思います。担い手不足も大きな原因です。

石油エネルギー製品への代替で里山の利用価値がなくなったからというのもあるでしょう。

ですがあえて1つに挙げるとしたら、

国土を維持するという価値の低下、だと思っています。

国土というと大げさな言葉になってしまいますが、野山のことです。

野山を維持するという価値が、別の価値に負けている。

それは収入であったり、家族の時間であったり、個人的な時間であったり。

山を管理することがよいことだとは農家の誰もが知っています。

漁師も知っています。むしろだいたいの人がわかったいることです。

ですが、その時間は収入につながらない、家族で過ごす時間が減る、余暇の時間が減る。

山の管理をしなくても、自分一代はどうにかなる。たぶん子どもの代まではどうにかなる。そのあとのことはそのあとのこと。

山の所有権は複雑。「管理する」という中身がわかりにくい。

いろんな理由があります。


<収入の面からみる>

農家の収入はどこからくるかと言えば、農産物を売ったお金からです。

ですから農産物がない限りは収入を得ることはできません。山の管理をしたところで現金にかわらないのです。

仮に薪などを販売することで収入があったとしても時間に対しての収入〔時給)は最低賃金を大きく下回ります。

また、山の管理をしなくても、農家一代が定年まで農地を利用し続けることはできます。つまり、山のことを何もしなくても生きていくことはできてしまうのです。


<田畑の管理の面>

農業をしている人なら誰でも感じることですが、やりだしたら終わりはない。大きな分類で農業と言わずに、例えば大根農家だとして、大根の世話をしようと思えばいくらでもすることはあります。ですので、いつも葛藤します。

もっと野菜を観察したいけど、時間を確保できない。それは日暮れだったり、家事だったり、余暇だったり。

そんな中、さらに時間を創出しようとしたらどこかで無理をするしかありません。


<野山の維持のために>

農家が近隣の山まで管理しようとしたら無給労働をすることになります。かつてはそれが当たり前のことで無給という概念さえありませんでした。野山の維持管理はお金では測れない価値があったのです。

とはいうものの、人手不足は大きな問題です。街に住む人が里山の維持に興味があって人手になりたいと思っても受け入れ体制が整っていないのが現状です。

木が生えてしまっている農地。雑草も生え放題です。

これの問題は畦(あぜ)が崩れやすいことです。畔が崩れれば下流へ土が流れます。

その土は下流の田畑の邪魔をします。要所要所で土がたまります。ゆくゆくはダムにたまります。

崩れた畦を直すことは相当な労力です。

そうならないために草の管理だけでもしておくことが大切です。


わかりづらいですが、草を刈り倒してあります。このあとに木を切り倒し、畔がこれ以上崩れないようにしておきます。

少しでも日本の山間部のことを知っていただけたらと思います。

山富-YAMATO-

山は宝の山。山の富を知り、山の富で暮らし、山の富を守る。愛知県豊田市で山に関わる事業を行っている「山富-YAMATO-」のHPです。

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